にっき

黒歴史かもしれないけどやるしかない

浪人の末E欄大に進学した

塾の合格体験記のメモで残していたものだが塾名を伏せて投下 ここに保存しておくのもいいと思って

書き足したところも大分あるしまとまったオチもない まだまとまってはいけない

------------------------------------------------------------

 

結果として、浪人した結果Eランクの大学に通うことになった。もちろん開始時に志望していた大学のレベルよりはるかに低い。いわゆるmarchなんかがぼんやりと目標としてあったがまさかのEランク!日東駒専以下!大東亜帝国も危うい感じ!!
 
 
ざっと今までの学歴?(経緯)を書く
 
 
幼稚園の頃から幼児塾のようなところに通う
おかげで小学生時代はクラストップ(近所の小学校)
中学受験をし自称進学校と呼ばれる学校に入学(私立)
が、学校に通わなくなりエスカレーターで高校には上がれず単位制に転校
浪人
E欄大学に入学
 
こんな感じだ
 
結果だけ見ると気の毒に思われたり勉強しなかったのかなどの批判が想像される。これだけみたらきれいに底辺に落ちている。曲線美。いい感じで落ちてる!が、なんだかんだ言って、人の目はほんの少し気になるみたいで若干の負い目は感じる。
 
合格()体験記という事で浪人時代の詳細をざっと書いていく。一番の肝だろう
 
まず、夏以降ぱったりと塾に行かなくなり勉強に取り掛かる機会も気力も全くと言って良いほど無くなってしまった。鬱っぽくなったように見えてしまうがそうではない。
受験と言うのは、当たり前の話だが「どれだけ問題に正解出来るか」を追い求めるものだ。参考書なら正当率・模試なら得点・本試験なら合格最低点以上。つまり日々の勉強でも得点を意識して勉強をする事になる。物凄く当たり前の話。
 
が、どうしても自分には引っかかる何かを感じずには居られなかった。
学生特有の「なんか違う気がする 本質をついていないかもしれない」という、もやもや感がまとわりついていた。必死に集中して問題を解いていてもこれがふと頭によぎる。勉強にほとんどを費やすといっても浪人生は時間があるので感覚を言語化しようと何度も試みた。ある程度のまとまった答えが出るまでそう時間はかからなかった気がする。
 
まず最初に「受験勉強」というのが「自分の思っている勉強と違った」という結論に達した。「受験勉強」は学問を追及するものではないのだ 。受験科目(英語など)はテクニックを身につける媒体?のようなものに感じた。英語自体の学問としての勉強ではないのだ。現在書いていてそんなこと当たり前だと感じたが、その当たり前が正しいと感じられなかったのであろう。
 
英語の点数が50点上がる努力をしたとして実際問題、以前と比べ英語が喋れるようになった訳でもない。受験英語の点数が50点あがるだけなのだ。現代の社会でグローバル社会がどうやら、世界の公用語など言われているならばいっそのことリスニング重視の試験にすればいいのにとすら思った。「本質をつく」なんて言われているあれだ。分厚い(実際あまり使われていない)英文法の参考書を覚えるよりよっぽど現実的ではないか。ネクステージ(大学受験英語で一番メジャーな文法書)を6周こなし、ランダムで問われても9割型答えられるまでやりこんだが英語での会話が出来ない。そりゃあある程度の文法を知ることで会話の役にもたつが、「2割の意味のある事」の為に「8割の意味ない事」を無視しながら努力するならばもうそれは「意味がない」と言い切って良いのではないか?まあ実際それから個人的にリスニングの勉強をしたわけでもないのでただの頭でっかちだが。
 
古典はそもそも何に役に立つとか以前の問題でこれに必死になって努力する事がバカらしくなってきた。動詞とその意味をひたすら暗記し当てはめ訳し選択肢を選ぶ。とっても退屈だったし点数が上がっても嬉しさなどあまりなかった。
 
社会系は歴史に興味が持てなかったので政治経済を選択した。今現在起こっていることと直接結びつき現在でも語られていることが多かったので勉強しやすく、一番興味が持てた教科でありまた一番高い点数がでた強化でもあった。偏差値73が出た時の全能感は今でも覚えている。
 
とまあ勉強すればある程度暗記のコツだったり作業の簡略化をし勉強というものが上手くなっていく訳で(点数に出ない事はあるが)コツをつかみ育成ゲームのように、「ああこの分野が弱いからアイテムを使って強化しよう」みたく作業をしていくイメージがしっくりくる。夏は自習室に通い基礎を固め、秋冬でこの効果が成績に現れそうだと先生と話していた事もあり特に「点数を取る勉強」のモチベーションは低くはなかった。気分も良かった。育成ゲームは割と好きな部類であったし。
 
 
ここまでは受験勉強は本質をついていないという問題であった。
しかしここで最大の疑問にぶちあたる
 
浪人生が陥りがちなのかもしれないが「自分はそもそも何のために勉強しているか」という明確な理由が薄れてしまったのだ。勉強ときたら人生の本質まで飛んでしまったのだ。時間がありすぎるのもよくないのかもしれない。「勉強する意味・大学に行く意味・進学した大学のレベルが将来にどれだけの影響を与えるか・将来どういう職に付きどんな人間になりたいか」など勉強以前の「そもそも」の問題がずっと心のどこかに引っかかっていた。まんまと罠にはまっている最中にも若干気づいていたが、おそらくこれは解決はしない問題である。結果を受け入れてから後付けで理由が出てくる物なのだろうなとぼんやり考えていた。ここで普通の受験生なら割り切って将来の為勉強という努力を続けるのだろうが自分には無理だった。完璧主義ですべての事に意味を持たなければ努力ができない人間かと言われたら違うと否定はするが、実際そういった面も自覚している。マイペースというか中二病というか頭でっかちというか正当化というか
 
とある学問の勉強をしたくその界隈で有名な大学を志望していたのだが、理由づけには不十分だったのかもしれない。いや不十分すぎたのだ。専門学校に行ったほうが早く現場に出れる事や、結果どの大学に行っても試験に受かれば同じスタートラインに立つ職業という事もあっての事だと思う。「好きな女の子が志望している大学だから自分も志望する」や「校舎がきれい」や「食堂のご飯が美味しい」のほうが努力につながる強い理由なのだろう。本当にそれを求めているのなら理由として十分であろう。実際大学に行く意味など考えるとこの大学でなければいけない大学なんてないのではないかと思った。どこでもいいんだとすらなった。
 
 
 
 
 
大学生が人生の執行猶予期間と言われる事があるが、浪人生の僕の場合は、執行猶予の為の執行猶予期間のようなよくわからない期間であった。一応浪人生という枠があるが、学生でも無ければ社会人でもないどの枠にも属していない期間だ。進路を決める高校の期間も同じようなことは考えてはいたがまたこれとは少し違い、このような特別な期間だからこそ考えられることがたくさんあった気がする。まあ半分は思い返すとどうでもよく笑ってしまうような事ばかり考えていた気もするし、勉強しない浪人生ってニートじゃん...と時々思い出しては居心地が悪くなる事が多々あったが。勉強が本分の浪人生が勉強そっちのけに「なるようにしかならないもの」をグルグル考えているのも本末転倒であるが、そもそも本末って勉強する事じゃなくね?もっと広い意味があるんじゃね?長い目で人生を見て為になることすべきじゃね?と勘ぐる、中二病精神が湧き出てしまった故の結果となり僕の浪人生活は終了した。何回も言っているが結局は行動しない人間なのだ。頭でっかちなだけ。勉強したくないのを正当化してそれっぽく言っているだけなのかもしれない。ここに書いてあるのは全て本心だが。
 
とまあここまでは自分の戯言だが、事実として「受験だから」「大学行くための手段なんだから」で収まってしまうのはなんか少し悲しかった。なんかちげえなぁがずっと張り付いていた。塾の先生が僕の人生関係なしに学部と偏差値で大学を進めてくることにとても違和感があった。もっと血の通った選択をすべきだと感じていた。が塾の先生には自分の思想などどうでも良いこともわかっていた。先生としての仕事を果たしてくれていただけだ。(とても良い方だったので打ち明ければ対応してくれたとは思うが) そして、大きなものに抗って道を見つけてみたかった。唯一の作り上げた思想で、近い未来に正しかったと少し微笑むくらいの選択をしてみたかった。いやしたのかもしれない。したばずだ。自分で決めた。自分で考えた。自分を信じてみた。まだその最終的な正解不正解の判断はできない。大学卒業時にわかるかもしれない。就職時にわかるかもしれない。定年後暇になってわかるかもしれない。死ぬ間際のベッドでわかるかもしれない。結局は最善を尽くすことなのだろうか では受験時最善を尽くしたのか?
 
 
 
 
 
塾の先生には大分心配を掛けた上このような結果になってしまい申し訳ない気持ちも強い。塾の勉強の仕方を教えてもらう事もそうだが、抽象的な質問をしても毎回親身に対応して貰った。勉強の事や、塾に行かなくなり進路の相談をした時も。苦手な英語が段々と改善されたり、現代文でも本番の得点源となり大分心に余裕が持てたり、模試だが政治経済でも自分の中でかなり満足な偏差値が出せたり。浪人を経験し半年とはいえ勉強して得たものは小さくない。少なくとも半年間は努力をし数字として結果が出たのだ。自信もつく。E欄進学という結果からみて後悔するべきなのだろうが実は想像してる以上に落ち込んではいない。正解ではないだろうが合っている選択を考えながら選んだつもりだ。「血の通った選択」というやつだ。最善の行動をとり納得いく努力をした訳でもないのに合格体験記というのも少し周りから浮いた感じもするが。

10/13

 

10/13日

 

思い立って投稿

 

昔から「大人になると薄れる記憶」を自分だけは忘れたくないと感じ、iPhoneにメモをほんの少しずつ取る日常を送っていたが、短文で収まる記憶はどこか物足りずもっと本質的なことを残しておきたいと感じこの日記を書く。

 

自分の死後、自らの生きざまをこの世に・身内に・後世に残すのが遺書であるが、そのの逆に未来の自分にむけた手紙やメモを残す事は思い立っても行動まで結びつかない。なぜならあまり必要性がない。経験を積んだ未来から現在や過去に手紙を残すならまだしも、大の大人と比べたら浅はかでさほど知恵もない19歳が未来に向けて残すような大層なものはさほどない。じゃあ人生設計でも書いて時々見比べて方向修正をするためのアイテムを残すか。それこそ無意味。なるようになるし人生設計なんて2次元のキャラクタープロデュースとさほど変わらない気がする。偶然であった人に紹介され職を変えたり、ふと思い立って田舎に住んでみたりなんかしたら設計者も頭を抱えるだろう。所詮その程度。たられば論の娯楽遊び。

それでもたまーーーに「あ、これ忘れちゃいけないやつだ」「いま思い立った純度の高いこれは歳を追うごとに腐って忘れていくものだ」なんて思っちゃうときがある。道徳感とか「人として論」とか考えるとこれと言ってピタっとあてはまる言葉が見つからないけどもまあとにかくある

 

それを書き残しておかないと未来の自分が、iPhoneにかかれたたった数行の思想を「空気に触れているコップの水面だけをすすって昔の自分を理解した気」になってしまう気がした。かといって何が大きな伝えたいものがあるかといえばなくて、それが絶対的に意味深い物かと言われれば正直言いきる自信はない。ただ一つ言えることは結果は同じでも昔の自分とズレた解釈をしてほしくない。できるだけすべての過去の自分の意志を汲める場が必要だと思う。おそらく必要になるときがくる。たぶん

 

<具体例を出す>30・40歳のある程度社会的地位を得て金を稼いでいる世代に自分自身がなるという現実は今現在考えるとかなり恐ろしい。20代後半からの人生で社会というものに本格的に触れるにつれて思想や行動が大きく変化していくだろう。偶然その未来に辿り着いたにすぎない現状や社会的地位を軸とした意見や思想に呑まれ、ある意味盲目になってしまうのではないかと考える。金や地位や環境はとても人を変える。というよりもそれらに人間が順応していく気がする。社会人になれば、社会人になって経験したことがすべてだといわんばかりの発言をしてしまうかもしれない。社会に属さない人間に対して排他的な思想を持つかもしれない。金をもった生活をしているなら安易に金は大事だと脊髄反射で発言してしまうかもしれない。金を使った幸せを感じることが多くなるにつれてよく考えもせず短絡的な結果を口走ってしまうかもしれない。ぱっとみの結果や執着地は昔と変わらないとしても、思考を停止し結果だけを淡々と述べているかもしれない

 

このようなことは16あたりから考えてきたきもするが19の今まだまだ日常の会話でポロリとこぼれてしまうことがある。生活の中でふとそのような自分の発言を思い出し後悔したり失望したり恥じたりする事が本当に多い。頭を洗っていても思い出し手の動作が乱れる。ベッドで眠りに入ろうとしている最中も頭をよぎり寝返りをうつ。薄々気づいていたがもうこれは完全には治らない病気みたいなものなんだろうと思う。人間全員が生まれながらに持っている病気。薬を飲もうが何をしようがボロがでてしまう病気

 

ありふれた当たり前な現象だからといってしょうがないで済ませたくない

だれがなんと言おうとも本質を忘れたくない 安泰でいたくない 安心のために他の何かを盾にして結果の一言で済ませたくない 思考を停止したくない

 

たった2・3行で済む話 それでも多くをくみ取ってほしい